父も母も東京生まれではないですが、私がもの心ついたときには家では普通にいわゆる標準語を話していました。なぜそうしていたのかは知りません。そして徐々に元に戻ったというのか、2人とも家で方言で話すようになり、今ではどこでも相手が誰でも方言です。
父は山口県、母は高知県の生まれなのですが、山口弁はイントネーションが東京とあまり変わらない感じなので置いておくとして、土佐弁は関西弁と同じイントネーションなので上京した当時には言葉で苦労したのかも知れません。
ですので、母が土佐弁で話すところに初めて居合わせたときにはびっくりしました。祖父母が東京に遊びに来た時だったと思うのですが、子供の私にとっては母親がいきなり知らない外国語で話し始めたくらいのインパクトがありました。当時はまだテレビなどで関西弁が頻繁に流れるということもなかったので(大阪弁が全国区になったのは80年代のお笑いブームからだと思います)、余計に驚いたのかも知れません。
神戸に住んでいてわかったのは、東京弁には少なからず嫌われる要素があるということと、それにも増して東京者が使うニセの関西弁は拒絶されるということでした。そういえば、大学の同級生で大阪神戸出身の人はずっと関西弁で通していた人が多かったような記憶があります。おそらく、自分の話す言葉に誇りや愛着があるのでしょう。「関西弁」とまとめて一緒くたにしてしまいがちですが、大阪弁と神戸弁は少し違うということも何となくですがわかりました。
京都に来て感じたのは、日本の言葉で最も上品なのが京都の年配の女性の話す京言葉ではないかということです。場合によっては嫌味に受け止められることがある東京の山の手言葉(いわゆる遊ばせ言葉)よりも、さらに奥ゆかしい感じがします。若い女性でも、「かんにんえ」などと言っているところを聞いたりすると、優しくて控え目で、東京の荒くれ女の私はとてもかなわないという気がします。
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