欠落

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昨日の続きです。

地下鉄サリン事件が起きた当時、私は多忙でしたのであまり事件について深く考えたことはありませんでした。ただ、自分が通勤に使っている路線で起きたことがショックといえばショックでしたが、オウム真理教というものの意味することは、何となくわかっていたような気がします。

むしろ、「偉い」人たちが事件にひどく衝撃を受けたり狼狽したりしていることが不思議でした。

オウム真理教というものはまさしく戦後の日本に欠けていたものを埋める存在であったので、それが宗教であり擬似国家であったことは当然なのです。

価値と目標を喪失して迷っているところにそれらを与えられ、虚しさや敗北感、無力感がなくなったとしたら、教祖が救世主に見えるのは当たり前です。信じる対象や自分の居場所が見つかったので嬉しかったことでしょう。出家して集団生活をしていたことも内部に階級制があったことも、行き過ぎた自由平等に対する反動だということで説明がつきます。信者に有名大学を出たエリートが多くいたことも、そのような日本社会で「勝ってきた」人だからこそ、不安や虚無感を強く味わっていたからではないかと思います。

彼らにとっては、日本そのものに取って代わるべき存在がオウムであり、地下鉄にサリンを撒く行為はその序の口だったのでしょう。

犯罪にかかわる法律問題は別として、彼らのほぼ唯一の失敗は、安易な救済にたどり着いてしまったことです。「救済」に免疫がなかったのです。

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