暴力

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昔、自衛隊は暴力装置であるという言葉が物議をかもしたことがありました。

私は、法それ自体が暴力であり、法を作る政治自体が暴力装置だと思っています。

強制力のない法にほぼ意味はない、と言っていいのではないでしょうか。国家権力による力の行使が法の背景には必ずあります。人の意思とは無関係に何かを強制する力が、近代では君主ではなく法に与えられています。

高校最後の春休みに初めて法律の教科書を読んだときに、私は法学部に進学することにして失敗したと思いました。それまで漠然と、法律というものは正義のためにあるのだと考えていましたが、そこに書いてあるのはただ金銭(財産権)をいかに守るかということばかりに思えたからです。私は、当時も今もあまり金銭には関心が持てずにいます(なおその教科書は、当時必読とされていた『現代法学入門』でした)。

法律があれば暴力はなくなるかと言えば、そうではない。強制力という暴力をもって、人の権利を守るのが法です。刑法で犯罪だと規定される暴力と、法の持つ強制力という形の暴力は、何が違うのか。

あれから30年間以上もその問いが頭を離れませんが、契約に強制力を与えたり課税したり犯罪を処罰したりという、国家による実力の行使が正当なものとして許されるのは、多数の人に支持されたから、という理由のみです。

どう考えてもそれしかないのです。

決して、それが「正しい」からではない。法律家は自由と正義の味方ではなく、強いていうならば多数意見の味方です。この場合の多数というのは、多くの資源を持っている、声が大きい、という意味も含んでいます。

つまるところ、放っておくと多数派による少数派の支配・抑圧が「正当な」理由でなされる、それが法であり政治です。

ともあれ、私は実際に大学に通い始めてからも、学んでいることに関心が持てなかったため、とても後悔しました。私が大学で学びたかったのは真理であって、処世術ではなかったからです。そうであるならば、親の反対を押し切って理系の学部に進むべきだったのです。

それから30年、私はいまだに法というものに対して強い不信感を抱いています。多数派が常に正しいとは限らないからです。

自衛隊が暴力装置であるという発言は、国会議員のものであったと記憶しています。ですが私に言わせれば、自衛隊や自衛隊法はおろか、与野党問わず国会議員自体が暴力装置なのです。それを自覚している議員は、果たしてどれくらいいるでしょうか。