昨日の続きです。
オウム真理教の信者のただ一つの失敗は、安易な救済にたどり着いてしまったことだというようなことを書きました。自らの万能感を損わずに救済がもたらす万能感を得ようとするのはまやかしであって、嘘の上に嘘を、傲慢の上に傲慢を重ねることです。
日本社会の病巣は、根が深いと思います。近代化つまり明治維新や敗戦などがそのきっかけではありましたが、例えば鎖国を開いた時の近代西洋の自我と日本的な自己のあり方との違いに関して受けた衝撃をとってみても、日本社会に漂う不安は歴史や国民性に根差すもので、それが新興宗教を信じたからと言って安易に解決出来る筈はないのです。
彼らは、自分たちに何かが欠けていることはわかっても、それは生易しいことでは手に入らないことに気付かなかった。その短絡。
それは、サリンを製造する理系の知識はあっても、それを製造し使うことの妥当性すら判断がつかない、文系的というか総合的な思考力がないことと呼応しています。
そういう意味で、それはそのようなオウム真理教信者を生んだ社会の、宗教家を含む思想家の怠慢であり文系知識人の軽薄さ無力さであり理系知識人の節度の欠如であり、それらの人の敗北です。オウム真理教事件が起こった時に、当時の「偉い人たち」が揃って動揺・狼狽したのはこのためです。
オウム真理教事件は、特殊な信仰を持った人が起こした特殊な事件ではなく、国家ごっこでも単純な宗教テロでもなく、教祖個人の資質がもたらしたものでもなく、日本という歴史や国家と自らを切り離してしまった自己責任社会の中で、価値判断基準や目標を失い不安を感じるすべての人が起こしうるものです。
事件のあとも、状況が変わった訳ではありません。無目的な経済的繁栄の回復を追い求めてグローバリズムを唱えた結果、短期的な成果主義に踊らされ、ブラック労働で心身を擦り減らして明日が見えない「不安」は、弱者を自己責任論で切り捨てる言葉と自分が切り捨てられる恐怖が鏡合わせになって自己増殖し、人を分断して孤立させています。
では、自己責任社会を形作っている不安に対してはどうすればいいのかというと、私にもこれという答えはありません。「信仰」は、私にとってもすでに失われているからです。
ただ、敗戦やオウム真理教事件などの出来事(歴史)を検証してそれを意味付ける行為や、自分や社会の価値観や目標の妥当性について辛抱強く思考を重ねることはおそらく有益ではないかと思います。ですが、不安や虚無感、無力感や敗北感は完全には消えないと思います。それは「人間には何でも出来る筈だ」という思い込みの裏返し、すなわち自らの傲慢に対する罰であるからです。
信じる対象を失ったというのか、あらかじめそれが失われている世界に住む私には、救済は決して訪れることはない。その代わりになるものは、不安に耐えつつ根気よく思考すること以外にはない。そんな気がしています。
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