クッション

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以前、生きることには何の理由も目的も意味もないのではないか、というようなことを書きました。

それでは、私の人生は虚無であり宇宙空間の真空なのか、というともちろんそうではないと思います。

この肉体が存在する世界で私が生きている限り、私の人生には「役割」があります。

もしかしたら「役割」のみで構成される存在、それが私ではないかと言えそうです。

女性であり、子供であり、妻であり、友人であり、市民であり、府民であり、国民であり、職場での役職であり…私の属性とされるものは、すべて何かの機能を果たすべく与えられた「役割」のようです。夫に対して「私のことを妻や母ではなく一人の女性として見て欲しい」と言う女性がいますが、「女性」も「男性」も妻や母同様一つの役割と言えます。

少し前に、安冨歩さんという経済学者の「東大話法」という言葉が話題になったことがあります。東大を出ているような人の言葉は、その立場を抜きにしては解釈を誤るポジショントークであるそうです。

東大卒の人に限らず、ほとんどすべての人の言葉は、その人の立場つまり役割からの発言ではないかと私は思います。人は一人で生きているのではないからです。

社会の中にいる限り、私の人生には意味はなくても役割がある。

あくまでも「役割」なので私の代わりはいるのですが、代わりがきくので安心して死ぬことが出来る。

ひどく辛いことがあったり理不尽な目にあったりしたときには、今はそういう役割なのだと考えれば、役割がクッションのようになり、少しだけ相対化して客観的になれる気がします。

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