昨日の続きです。
私たちはもうサムライの精神を持つことは出来ません。
何故ならばそれは自滅したからです。
私は保守・右翼の人の言うように、過去のサムライの精神を取り戻すことが私たちに必要な処方箋だとは思いません。その一方で、生きる目的を持つのではなく、ただ生きること自体が目的となってしまった空洞の「戦後」も否定はしません。
私たちに必要なのは、絆(縛るもの)やその対義語の個(孤)ではないと思います。
必要なものは過去の否定でも過去の美化でも過去への回帰でもなくて、過去と現在を結ぶもの(よすが)です。
目をふさいで過去を否定しても、なかったことにはなりません。
三島由紀夫がしたように、サムライに殉じて切腹したからといって虚無がなくなる訳でもありません。
過去を否認した結果、よすがを失い虚無の中で漂う世代は私たちで終わりにしなければなりません。
過去から引き継ぐべきものは引き継ぎ、そうでないものは変える。
戦争責任云々の話ではなく、国体の本義の話でもなく、単純に過去に何があったかを直視し、それが現在にどのような影響を与えているかを分析し、未来に何を残せるのか不断に考えること。
私たちが何者であったのか、何者なのか、何者になろうとするのかを考えること。
そのことだけが、縁(よすが)です。
瓦礫の中からしか生まれないものがあるのです。
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか - Wikipedia
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