関西に越して以降会っていない知人から、クリスマスカードが届きました。毎年必ず送ってくださる人で、近況などを知らせてくれます。
今年は、とにかく新型コロナが恐ろしくてバスにも乗らないほどで、高齢のご家族も近所で買い物される以外はほとんど外出しない生活をされていたそうです。
私自身は新型コロナなどはちっとも怖くないというのか、マスクのせいで自律神経失調の症状である体温調節ができない状態が酷くなることの方が迷惑だと思って暮らしています(冬になるとましになるかと思っていたのですが、暖房を効かせているところでマスクをすると、夏にそうだったようにマスクの中にびっしょり汗をかいてしまってとても不快です)。鼻炎にもあまり良くない感じがします。嫌がる人や怖がる人がいないのなら、喋ることのない公共交通機関などではマスクは着用したくないです。
子供の頃は喘息持ちでしたし、10年くらい前にはインフルエンザから肺炎、肺炎から咳喘息になったこともあるのですが、それでも高齢者以外は病的にウイルスを気にすることの方が害が大きいような気がしています。新型コロナで亡くなったとされる方の平均年齢が、ほぼ日本人の平均寿命と変わらないということも理由の1つです。
何故怖くないのかということを突き詰めると、おそらく死ぬことが怖くないからで、何故死ぬことが怖くないのかというと、幸いなことにもう十分に生きたと思っていることと、失うものが何もないことが理由だと思います。ただし、苦しい思いや痛い思いはもちろん嫌で避けられるものなら避けたいですが、それとて自分の思うようにはならないことです。
世の中の人のほとんどがマスクをしているところを見ると、死にたくないと思っている人がそれだけ多いということなのだと私には思えます。
死にたくない、少しでも長く生きていたい、と思える人は私に言わせればそれだけ幸せなのです。生きていることにポジティブな意味を見出していると言えるからです。
このようなことを書いていると誤解されるかも知れないのですが、発達障害で鬱病で不幸だから他者の幸せを羨んでいるのではありません。そして冒頭の知人をおとしめる意図はありません。家族思いの心優しい女性なので、敏感になっておいでなのだと思います。
そうではなくて、特に京都に住んでいると自分のちっぽけな人生を相対化出来るというのか、自分は歴史を構成する無数の砂粒というのか微粒子の1つに過ぎないことが実感されるので、そんな存在が今日死のうと10年後に死のうと客観的には変わりがないと思っている、というのが近いでしょうか。
地球にも、恒星である太陽にも、宇宙にも寿命があって終わりが来る(あるいは時間そのものにも終わりがあるのかは私にはわかりませんが、ないのであれば永遠に歴史がループするのかも知れません。そうであればなおさら死を恐れる理由はありません)、そんなことも考えます。
そして、お腹いっぱいになるくらい食事をしたりすると思うのですが、私の欲望など簡単に満たされるはかないものだと思います。食べる前にどんなに食べたくても、満腹になれば食べたくなくなってそれ以上は食べられないのです。どんなに快楽を貪ってもたかが知れていますし、まして金銭や名誉や人の評価などは移ろうものです。苦しみも同じで、どんなに苦しくても自分が苦しめる限界を超えて苦しむことはありえないのです。
どんなに生きたくても「寿命=死ぬ時」が来たら死ぬのです。それが生きているということです。
それを忘れていられる環境にあった人が、新型コロナのパンデミックで改めて「死」を突きつけられてひるんでいる、そんな印象を受けています。
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