生きていることそれ自体には何の意味も目的も理由もないのではないか、というようなことを書きました。
もちろん、そうではないと考える人は多いことでしょうし、実際そうなのかも知れません。
あるいは、一見意味はないからこそ意味あるものにしようと努力されている人も多くいるでしょう。
ですが、鬱で何も出来なくなり、マイナスの価値しかない自分に生きる意味や理由があるのかということを考えざるを得ない状態になったとき、そもそも初めからそのようなものなどなかったのではないか、という考えに私は救われたところがあります。
生きる「目的」は、運が良ければ自分で見つけることが出来そうです。
ですが、自分の意志で生まれてきたのではない以上、生きる「理由」は最初からないと言わざるを得ません。
そして、生きる「意味」はあるのかも知れませんが、それは自分ではなく人が見出すものであって、自分自身ではもしかしたら死ぬ瞬間あるいは死んだ後(死後に意識があったとして)にしかわからないものなのではないでしょうか。
それならば、生きている間に自分の生きる意味について考えることは無意味なのかも知れません。
ですが、それを考えてしまうのが人間。
人は、歳を取れば取るほど理不尽さや無意味さに耐えられなくなるような気がしています。
子供の頃は、世界が理不尽さや無意味さに満ちている状態が普通ではなかったかと思います。それは知識も経験もなかったからで、それらを身につけると同時にそれらを使って理由や意味を求めるようになる。子供の頃には出来た無目的な行動も、歳とともにエネルギーを失ってくると出来なくなる。
知識や経験のない(物心つかない)子供は、自分の存在意義などは考えず、ただ無心に存在していることが出来る。
物心つく前の自分には戻れませんが、理不尽さや無意味さを受け入れられるようになりたいと思っています。
Comments