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生きているということ自体には意味や目的や理由はない、そう考えるようになって、私は救われたところがあるというようなことを書きました。

鬱病を患った私に、その考えがどのような影響を及ぼしたのかというと、ある意味開き直ることが出来るようになったと言えるのではないかと思います。

鬱病は身体症状も精神症状も辛いですが、何も出来ないまま時間だけが過ぎていくという鬱がもたらす状況に耐えることも辛いです。

鬱病にさえならなければ、意味のある時間の過ごし方が出来る、あるいは出来たのではないかという喪失感や焦燥感がまずありました。

少し鬱が回復してくると、あったはずの「意味」を失い「無駄」に過ぎた時間を少しでも取り戻そうとして、なけなしのエネルギーを使い果たしてまた鬱状態に戻る。

愚かにも私はその繰り返しばかりで、20年近くを過ごしたことになります。

ですが、鬱で何も出来ずただ横たわって天井を見つめて過ごそうと、好きなことに全力投球して過ごそうと、仕事に追われて過ごそうと、もともと生きることに意味はないのであれば、それらの時間には等しく意味はないことになります。

そこにはただ、そのようにして生きた、という事実があるだけです。

つまるところ、私は自分の人生には何か意味(価値と言い換えてもいいかも知れません)があるべきだ、と思い込んでいたがために、何も出来ない自分が無価値であると思ってしまっていました。

そもそも初めから意味がないのであれば、何も出来ずに過ごした時間があっても、それはそれで構わないと開き直ることが出来ます。

おそらく、この「何も出来ない自分は無価値である」という思い込みは、親の影響で身に付いたものではないかと思います。それが自分を駆り立てている間は、鬱が良くはならなかった。

そこから脱するために、「そもそも初めから誰もが無価値である」という考えにすがった、ということになるでしょうか。

毒をもって毒を制す。

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