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昨日の投稿に書いたような「何も出来ない自分は無価値」という考えは、いわゆる毒親育ちの人、機能不全家族を持つ人ではなくとも持っているものではないかと思います。

資源は有限なので、例えばある物事について費用を投じる際に、「役に立つ」「役に立たない」という物差しを用いることはごく当たり前のことです。

ですが、役に立たないと思われていたことが、実は決して無駄ではなかったという事例は数多くあり、ノーベル賞を受賞された人なども、一見役に立たないように見える基礎研究の分野こそ重要だというようなことをよく口にされます。

素人の印象ですが、「今役に立つもの」の寿命は短く、「すぐには役に立たないもの」は応用範囲が広いので長持ちするように思えます。

とはいえ、限られた資源と時間の中では、その物差しを使って取捨選択しなければならないことの方が多いでしょう。

そして、その物差しをつい人にも当てはめてしまうことが私にもあります。物ではなく人が対象なのに、自分にとって都合のいい「使える」人とそうでない人、という捉え方をしてしまうのは、資源すなわち精神的エネルギーが限られているからなのでしょう。

人には自由意志があり、誰かの役に立つために存在している訳ではない。それなのに、頭でそれが分かっていても、つい相手や自分にその物差しを当てはめてしまう。

「誰かの役に立たなければ、自分の存在している意味がない」という思い込みは共依存を生んでしまう考え方ですが、それは、即戦力や高い効率性を求める現代の労働倫理と紙一重で、多くの人が共有しているのではないかと私には思えます。

どちらも人を自ら進んで奴隷状態に陥らせるもので、最終的には誰も幸せにはならないのではないでしょうか。

その思い込みから自由になりたいので、私は自分の人生の理不尽さや無意味さ、自分の役に立たなさを素直に受け入れたいと思っています。

 

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