目視

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航空機内でマスクを着ける着けないをめぐってトラブルになり、緊急着陸してマスクを着用していない乗客が降ろされるという事件があったようです。

以前にも書きましたが、マスクの着用は日本では感染予防ではなく単に他人に気遣いしているかどうかの問題だと思いますので、遅かれ早かれこのようなことがあるのではないかと思っていました。

N95のマスクならともかく、ペラペラの市販マスクや手作りのマスク如きで感染が予防出来るならばこんなに新型コロナは蔓延していませんし、蔓延しているといっても推定される感染率や重症化の確率と傾向から考えて、マスクなしで国内線に搭乗したとしても持病のある高齢者を除いて危険性はほとんどゼロに等しいと思います。

同調圧力云々の話はその乗客ご本人と思われる人がネットで発言されていますので、ここでは別の見方を書こうと思います。

ウイルスは目に見えないので、誰が感染しているかわからない(そもそも「感染」の定義も、例えばインフルエンザと新型コロナでは違っているので議論が錯綜しています。インフルエンザは発症した人数をベースに推計でカウントするだけの一方で、新型コロナは症状とは無関係に検査で陽性反応が出た人はすべてカウントされているので、明らかに後者の方が過大にカウントされています)。

そのウイルスという目に見えない恐ろしい存在を食い止めるかのように視覚にうつる「目に見えるモノ」、それがマスクであり、店のレジなどの回りに張り巡らされたビニールカーテンやアクリル板です(これらは交換しないとかえって不潔ではないかと私などは思うのですが、交換しているのを見たことがありません)。

「食い止める」か否か・「食い止めると思う」か否かよりも、「そのように見える」か否かがポイントです。

要は、目で見て安心したいのです。

マスクの効果の有無など関係なく、マスクなしの人を目にすることがただただ不安で怖いだけなのです。病原体は目には見えないからです。

多くの人にとって、マスクは恐怖に対する心理的な盾となってしまっています。

恐怖というものは根元的なものなので、人にどんなおかしなことでもさせる力があります。

いまだ感染予防の効果に疑問符がついたままのマスクは、着用義務が法で定められていない以上「気持ち」の問題に過ぎません。法的には、人に対して義務のないことをさせるのは強要罪という犯罪に該当しますし、国や自治体などが強制する場合には人権侵害をもたらします。

航空機内では、航空法に基づき機長か航空会社が危険だと判断する場合に乗客を降ろす権限はあると思います。ただし、「危険」に該当するかどうかが今回の争点ではないかと思います。

以前どこかの国が、条約や法律よりも国民の感情が優先されると言い放って批判されていましたが、何故かマスクに関してはまったく同じ考えでいる人が多いようです。

もっと以前には、別のどこかの国の人々が髪にパーマをかけている女性を非国民だと言って糾弾していました。

店舗・交通機関の中や仕事で必要な場合を除いてマスクを着けない私も、現代の非国民なのでしょう。

病気に関して精神論を語るなかれ。ウイルス感染は物理現象であって「気の緩み」の結果などでは断じてありません。その考え方が先日の安倍総理への心ない「体調を壊す癖」という言葉に直結しています。明日は我が身。

マスクについては、私は今自律神経失調のため体温調節が難しいのでわかるのですが、高温多湿の条件下で着けると身体に相当な負荷がかかります。

つまり着けると疲労が増すので、効果があるとはっきりしたら別ですがそうでない現状では、体力のない人や体調が良くない人が着けることはむしろ勧められないです。

そうではなくても、例えば発達障害で感覚過敏がある人にとっては、メンタルの調子を崩すくらいの鬱陶しさがマスクにはあると思います。

有り体に言えば、マスクは猿轡のようなものです。

個人的には花粉のシーズンだけは着けない訳にもいかないので、せめてそれ以外の時期に強制されたくないと思っています。

航空機と言えばカーゴカルトサイエンスというものがありますが、コロナウイルスに対する恐怖心にもそのような原始的というのか非科学的なところがあります。

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