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昨日のレッグウェアメーカーについての記事の補足なのですが、ことの本質は隠れた暴力的視線による女性のモノ化・客体化に対するメーカーの態度です。女性蔑視という言葉を使った新聞記事もあったようですが、それは言い過ぎだと思います。

かなり前に「亭主元気で留守がいい」と女性たちが発言しているというテレビCMがあってそれには賛否両論があったのですが、それに近い事例だと思います。夫を人格ある主体でなく給料を運んで来るATM=モノ扱いしている妻を肯定している広告だった訳ですが、特に謝罪があったという記憶はありません。私はこれも今回の件と同じくらい問題視されるべきだったと思っています。

また、どこかの施設の公式アカウントが、年配の女性に対する否定的評価を含む内容の発言をして、ついでのようにこれも女性蔑視だと非難されていました。これまで来訪者が年配の女性ばかりだったのに、珍しく若い女性が来て嬉しいというような内容です。

自分がおばさんあるいはババアと呼ばれる年齢になって思うことは、時間がたてば誰でも等しく歳を取りますが、上手に歳を取るのはとても難しいということです。

容貌や肉体は、どんなに頑張って維持しようとしても衰えます。例えばオードリー・ヘップバーン(1993年に63歳で死去)が晩年に久しぶりに姿を現したときに、その老化にショックを受けた人が多かったと記憶しています。抜きん出た容姿を持って生まれたヘップバーンですら、歳を取ったら衰えるのです。もちろん男性でもそれは同じなのですが、女性は容貌で評価される面があるという社会の意識構造の影響をより大きく受けますので、歳を取った女性に対しては同じ年齢の男性より強い否定的評価が下されますし、それを受ける女性の方は場合によってはそれに対して敏感になるところがあると思います。

おそらくそれは、人間の美意識に対して繁殖という生物学的要因がもたらすもので、目の前の相手が子供を産める年齢の女性かどうか、というのは動物の視点としては大きなファクターです。

つまり、生物学的にはその発言は間違っていない訳です。

白雪姫の童話のように、誰でも大抵は若くて見た目に綺麗な方が好ましく思うのです。それを責めるのは厳し過ぎるような気がします。

ただ、その意見を公にすることが社会的に無問題かといえば、そうではないとは思います。人間社会では、動物と違って本音と建前が求められるからです。

画像は、ギリシャ神話の正義の女神テミスの像です。剣と天秤を持っていますが、目隠しをしているのは外見で判断しない(逆に言えばしがちな人間の本性がある)ためです。

私自身は、自分に若さがなくなっても、歳を取ることによって別の何らかの魅力が付加出来るのであればいいなと思っています。

ところが、それが実に難しいのです。

社会が年配の女性に対して一般的に否定的評価を下すのは、人間の美意識の問題以外に、これまでに魅力を失わない歳の取り方をした人が少なかったから、あるいはそれが求められることがなかったから、ということがあると思います。

年配女性のイメージは、その是非はともかくとして物事に動じない肝っ玉かあさん(厚かましいイメージ)と、その逆の細かいことにガミガミ言うおばさん(ヒステリーのイメージ)に集約される感じです。つまり、これまでそのパターンのイメージに当てはまる人が多かったということなのでしょう。

そして、女性がそんな歳の取り方をすることのサイドエフェクトとして、相対的に若さを武器に出来る年齢の女性がもてはやされ、その行き着く先が、援助交際のように未成年を含む女の子が自分の若さを自分自身で商品にしてしまう行為です。

私が、そして一人一人の女性が蔑称としての「おばさん」になるような歳の取り方をすることが、間接的に若い世代の女性に刹那的な生き方をさせてしまうのです。

本能に従っているとも言える、若い女性をより好ましく思う男性一般を一方的に責めるだけでは、おそらくこの問題の答えにはならないと思います。

森高千里 『私がオバさんになっても』 (ライブ)

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