ここ何日か、あるラディカルフェミニスト(と自認されていると思いますが、そうでなかったらそれは私の誤解です)の方のブログを読ませて貰っていました。一昨日の記事も、そんなことから書いたものです。
私は女性やマイノリティの権利についてあまりよく知らないというのか、これまでそれどころではない生活をしていましたので、色々と初めて知ったり考えさせられたりすることが多かったのですが、結局「自分」と「他人」の関係を突き詰めると同じような結論になるのかなと思いました。
生物の世界は弱肉強食ですが、人間を人間たらしめている人と人との関係は(なるべく)対等であることが理想で、それが出来るか出来ないかは相手を自分と同じ存在である人として認め、その人格や意思を尊重するかどうかによる、ということなのだと思います。そしてそれは人格障害の身内との関係で私が身をもって学んだことと同じです。
フェミニストの人は、一般に男性は相手が女性だとそれが出来ていないと指摘しています。自分が発達障害で精神の病気なので、「健康(とされる)人一般」は発達障害者や精神病患者が相手だとそれが出来ないと感じていたことと何となくパラレルです。
「自閉症(広義の発達障害を指していると思います)でも特異な才能を生かせるからそんなに卑下しなくていいよ、という言葉によって二重にも三重にも傷つけられる当事者」=「女の子でも勉強が出来たら男に負けないぞと言われて育った人(私はそんな感じでした)」という構図でしょうか。
ただ私とフェミニストの人の違いは、私がそれは人間に一般的にあること(相手を自分の目的を達する手段=モノ化するのは男性に限らないですし、相手を自分よりも下に見る(上に見るのも下に見るのと実質的な意味は同じ;女には聖母か娼婦しかいないという認識が一例)のも男性に限らないです)だと思っている点でしょうか。
男女を問わず鬱病患者が、例えば発達障害者を下に見る発言をしたり統合失調症の人を差別したりするのを見てきたからかも知れません。
以前にも書きましたが、言葉は様々なものを区別するためにあって、言葉がある限り差別がなくなることはないと思うので、仮に男女差別がなくなったとしても、人が様々な理由で差別する・されることは変わりないと思います。また、多くの弱い人には自分よりも下と思える存在が必要なのです。
そして差別される存在であることを含めて、人より劣っていたり優れていたりする特徴を含めて、私は私自身なのです。それは何をしようと変わらない。相手の意識を変えるのは私ではなく相手だからです。
ただ、その苦しみや悲しみはわかる(わかると言う、それも私の思い上がりなのかも知れませんがとにかくそれが内面化されて自分が自分自身であることが嫌だというのは辛いことです)ので、せめて人に対して同じことをしないよう気をつけることくらいしか出来そうにないと思います。
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