昨日の続きです。
なぜそんなに人々は不安なのでしょうか。
それは、人間の理性や意思の力や努力などを過大評価する傲慢さの裏返しだと思います。例えば、貧しいのは能力や努力が足りない本人の責任であるとか、鬱になるのはメンタルが弱いからだという考えなどはそこから来ているのでしょう。
そして、その傲慢さはよく言われることですが「神は死んだ」、すなわち価値が相対化されて物差しを見失ってしまったから生まれるのではないかと思います。それとともに、価値観は多様化しているように見えながら、実際にはどんどん多様化から遠ざかっています。
誰もが、何を目指したらいいのか迷っている。それに対する答えを与えることのできる存在は、例えば年長者であったり宗教であったり、学問や国家や歴史であったりするのですが、おしなべてそれらの権威は地に落ちています。
特に日本では、敗戦とともにそれらの権威は落ちるべくして地に落ち、自由平等と経済的繁栄が「信仰」の対象に取って代わりました。ですが、経済的繁栄というものは、ある程度それが実現されてしまうと有り難みは逓減しますし、経済という所詮は手段に過ぎないものを目的にしてしまうと、虚しさをもたらすだけになってしまいます。
自由にしても同様で、目指す目的・目標のない自由は空虚です。そして、試しにまったく意味のないことをしようとしてみれば分かるのですが、人は無意味なことをしようと思って出来るものではなく、また、無意識に自分の行動に秩序や意味を求めてしまい、「無制限」の自由を行使することは出来ない存在ではないかと思います。自由を行使するには、逆説的ですが何らかの制約が必要です。そのため、無制限の自由を与えられた人は、むしろ虚しさや無力感を味わうことになります。
平等については、人々が平等になればなるほどそれぞれの小さな差が目につくようになります。また、平等というものは常に他人と比較し続けることで判断するもので、相対化された他人の物差しで自分を測る限りにおいて、常に敗北感や無力感を味わうことになってしまいます。
神は死に、歴史も国家も意味をなさず、目指す目標も空虚で、価値観が拡散する中で空疎な経済成長の終わりを迎え(信仰の対象を失い)、敗北感と無力感を味わっていた不安な日本に生まれるべくして生まれたのが、オウム真理教ではなかったかと思います。
オウム真理教事件と自己責任社会は同根です。
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