私はバブル世代と氷河期世代のわずかな間の、無名の世代に属しています(Wikipediaを見ると1970年生まれから氷河期に該当するようですが、私は早生まれなので1年上になります)。最初の就職には、それほど「努力」は必要ではありませんでした。
ですがいくつかのところで働きながら大学院に通い、再就職したのが2000年でしたので、バブルが崩壊してからの就職状況は肌で感じていました。
このところようやく就職市場が少し好転したと思っていたら、新型コロナウイルスの蔓延のため世界的な不況に入るかも知れず、先行きは不透明です。
自己責任という言葉が広く言われるようになって随分経ちますが、誰も生まれてくる場所や時代を選ぶことは出来ません。
「努力」というものを過大に評価するのが人の常なので、就職が難しいのはそれまで努力していなかった人の自己責任だ、と言うことは容易です。
ですが、「努力」をするには、それが出来る環境が必要なのではないかと思います。例えばピアニストの素質がある人であっても、練習を続けるためには環境が必要であることはもちろん、そもそもピアノと接点のない環境にいたとしたら自分の素質に気付くこともないでしょう(前提の素質があるかどうかは完全に運次第です)。
環境には、自分では選べないという運の要素があります。
そのようなことを当事者が言うと甘えであるとか、言い訳や負け惜しみと捉えられることがありますが、「努力出来る環境」を自分で整えられる人は限られています。18歳や22歳の若さで、何から何まで自分の力でそれが出来た人がどれほどいるでしょうか。
努力は素晴らしいものです。私のような意志の弱い者には継続がとても難しいので、心からそう思います。
ですが、努力出来た、ということはそれだけ恵まれていたとも言えると思います。例えば、私の世代の女性で大学に進学出来た人の割合は1割程度です。受験勉強は努力ではありますが、成績に関わらず経済的理由で進学出来ない人は今でもとても多いです。
自己責任という言葉の裏には、努力次第で人間には何でも可能という無意識の傲慢さがあり、それが人を二重に傷つけることがあるのではないかと思っています。
職に関しては新卒一括採用を続ける限り、そして学歴が遺伝する(収入と子供の学歴には相関関係があるそうです)限り、人は運に翻弄されるものであり続けるでしょう。
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