古典

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日本の精神性というものについて、本居宣長は「もののあはれ」ということを言いました。

私は、個人的にはその本質は「はかなさ」ではないかと思っています。源氏物語も平家物語も、その他の古典も突き詰めると存在のはかなさのことを書いています。

それは、仏教の伝来を日本人がどう受け止めたかということではないかと思います。もともと四季の移ろいがはっきりしていて、何かを作ってもそのうちカビが生え苔むして朽ちる。そうでなくても雨が海へと流したり、地震が破壊したりするところです。

そこに仏教が伝来したのですが、地獄の恐ろしさでもなく、極楽の美しさ・楽しさでもなく、輪廻の苦しみの永遠でもなく、解脱に至る道でもなく、現世の無常観にフォーカスしたのは日本人らしいところだと思います。

桜も今の時期の紅葉も、本質は散るということにあるものです。

写真は、以前もご紹介した真如堂(真正極楽寺)と金戒光明寺の間にある墓地の、無縁仏となって撤去された墓石です。立派な墓石であっても持ち主不明になっているようです。

私も、いずれは記憶してくれている人もいないこれらの無縁仏の一つになる。

やがてはこれらの墓石も朽ちてなくなる。

それを知ることが生きることです。

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