何日か延々と書いてきましたが、そのような理由で私には独自の価値観というものはほとんどありません。
50歳にもなっておかしいとは思うのですが、信じるものが持てないでいます。
友人に言わせると私は空疎な綺麗事ばかり言っている理想主義者なのだそうですが、自分ではそうは思えないです。強いて言うならば、社会で流通している価値観をよく吟味せず受け売りで右から左に流していることで、友人にそのような印象を与えたのかも知れません。
宗教に基づいたテロが時々起こりますが、私には命を懸けて信じる対象がないので、テロの是非は別としてそれほどまでに強く信じるものが持てる人が羨ましくなったりします。
デカルトは全ての物事に対して不信を抱いた末に、疑っている自分の存在だけは疑うことが出来ないという結論に達したのですが、私には自分自身の存在すら茫漠として掴めない感じです。
ベンゾジアゼピンの離脱症状のおかげで、自分が見ているものは脳が自分に見せているものに過ぎないということがわかったのですが、私の脳が現実に存在していてなおかつ機能しているという証拠を掴んだ訳ではありません。
それは仏教でいう唯識論のようなもので、あるといえばある、ないといえばないように思えます。
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia
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