萎縮

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私は女性として生まれて育ったのですが、最近までは自分が家庭では「息子」として育てられたのではないかと思っていました。一人っ子だったことに加えて、私が子供の頃の親の記憶といえば私に対して怒っている姿しかないと言っても過言ではなかったからです。それ以外にも、父とジョギングで競争させられたりファミコンや麻雀の相手をさせられたりと、当時の感覚としては女の子にはしないだろうと思うようなことをしていたと思います。

ですが最近になって感じるのは、自分は女性として「守られていた」存在だったのだということと男性一般の感じているであろう辛さです。もちろん私にはその辛さを推測することしか出来ないのですが、フェミニズムというのか女性の権利が言われるようになってから、顕著に男性が萎縮しているような気がします。その反面、言葉は悪いですが若い女性が増長している感じがします(その是非は別です)。増長は大袈裟な表現かも知れませんが、調子に乗っているところがあるというのか怖いもの知らずだというイメージです。

男性の辛さは、前提として「社会で何かが出来て当然」と思われるところにあって、出来ない場合には減点法で採点されることでしょうか。逆に女性は出来なくて当然なのでそこがスタートで、加点で評価されると言ってもいいのではないかと思います。加点で評価される方が、減点で評価されるより気分的に楽だと思います(例えば家事は減点法で評価されるものの1つで、主婦の人が鬱になる原因の1つになっていますが、ここで書いたのは作業という意味ではなくて、婚活のスペックというのか社会で通用する職歴や学歴、年収、所属などで表される「出来ること」を指しています)。

そして、自分がそうだったからわかるのですが、権利を主張していい、主張する理由があるとされる側の方が心理的には楽です。例えば「私は女性だから今の社会では不当に扱われているのだ」と女性が公に発言出来る雰囲気があるのが今の社会ですが(そしてそれはフェミニズムのおかげでもあると思うのですが)、男性が同じ文脈で「私も今の社会では公平に扱われてはいないから私にも権利を」と言ったところで誰も耳は傾けないでしょう。それを知っているので、男性は例え多少不当な扱いを受けても沈黙せざるを得ないのではないかと思います。

また、女性には「子供を産むことが出来る」能力というのか武器がありますが、男性にはそれがない。よって、社会は若い女性を一飜増しで評価するというのか、同じ年齢の男性より甘やかすという傾向があると思います。自分が子供を作れる年齢を過ぎようとしているので感じるのですが、子供を産めるという機能の有無はあまりにも大きく、また、生まれ持ったものなので、自分が無意識のうちにそれを武器にしているということを自覚することが難しいです。もしかして男性から見たら、若い女性はその武器(商品価値ともいうのでしょうか)を思うがままに振り回しているように見えるのではないかと思います。そして、女性には得ることが許される命のつながりというのか、確実に自分の子供が残るという実感のようなものに対する疎外感も男性にはあるのではないかと思います。それは、是非は別として女性の自己評価が男性より(無意識の中で)一段高いということだと思います。

何より、男性の世界は過酷です。様々な競争や序列や暴力の中に否応なしに放り込まれ、最後には腕っぷしというのか筋肉の力がものを言う世界は、かつて「女の子」として周囲に守られて生きてきた私の想像を遥かに超えているのではないかと思います。

女性は抑圧され、虐げられているから辛いというのであれば、男性も別の面で同じくらい辛さを感じているのではないか、と私は思っています。

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