何年か前のこの時期に、銀閣寺の近くのとても雰囲気のあるお店で、口コミなどでも評判のいいメニューのスコーンを食べていました。時々行きたくなるカフェなのですが、不定休というのか営業されている時間が短くて、タイミングが合わないとなかなか難しいお店です。
その日は隣のテーブルでも、秋の京都で旅行中といった感じの3人の40代くらいの女性のグループが、私たちと同じメニューを注文していました。とてもお洒落に気を使っていて、余裕のある暮らしをされている雰囲気の人たちでした。
スコーンが運ばれて来て、3人は結構長い時間おしゃべりをしたあと会計をして出て行きました。テーブルには、3人分のほとんど手がついていない状態のスコーンの皿が残されていました。
彼女たちがつついただけで残したものと同じものを、隣で私たちは美味しいと思って食べていたので、それを見て何とも言えない気分になったことは否定しがたいです。
確かにそのスコーンは一般的なスコーンよりもやや大きいもので、軽い食事くらいの分量はあるかも知れませんが、焼きたてを出してくれている感じです。
おそらく、その女性たちはお腹がそれほど空いてはいなかったのでしょう。あるいは夕方だったため、宿泊先などでそのあと食事の予定があったのかも知れません。ただ、それならば3人連れなのだから食べられそうな量だけ注文して分け合ったりすればいいのにと思います。
若い人にとっては食べられないなら残す、口に合わないなら残すのは当たり前のことなのかも知れませんが、私とあまり歳の違わない人が、それもほぼ丸ごと残しているところを見るのは珍しいことでした。
同席していた夫はそれを見て呆気に取られ、憤っていました。その皿を下げに来た店の人にもそう言っていました。夫は日頃から食べ物を残すことがない人です。昭和生まれだからなのかも知れませんが、私自身も外で食事をする時に残してしまうことはまずないです。抵抗感があるからです。食べ切れそうにない場合、最初から注文しません。それは店の人に失礼なだけではなくて、自宅なら後で食べることも出来ますが、外食だと捨ててしまう以外にないからです。
学校給食を残すことは原則許されず、見せしめとして昼休みの間ずっと食べさせられている世代でしたし(それには賛否両論あると思います。嫌いなものを無理に食べさせても、余計に苦手意識を持つようになるかも知れないと私も思います)、特に私の父親は戦争で食料がない中8人兄弟の末っ子として育ったので、家庭でも食べ物の好き嫌いを言うと大変な剣幕で怒られました。
今はもうそんな人はいなくて、むしろ食べ過ぎて太るよりはいいだろうという意見もあるかも知れません。
また、私はあまり好き嫌いがないというのか、もしかしたら味覚音痴なのかも知れません。
ただ、食べることというのは人の本能で食べないと生命を保つことはできないので、食べ物に対してどのように振る舞うかということにはその人の人間性が表れます。
若い頃のことですが、憧れていた異性と食事をした時、その人が食事後のお茶碗にご飯粒を驚くほど沢山くっつけたままにしているところを見てひどく幻滅したことがありました。何というのか、どのような家庭で育ったのかと考えてしまってさらには生理的に無理だとまで思ってしまい、それ以来何度連絡を貰っても一度も会わないままになっています。食事という行為にはそのような力があります。
外食で残す行為について、お金を払っているのだから食べようと残そうと客の勝手だ、という意見をよく見かけます。作る人はそれが仕事で利益を得ているのだし、特にチェーン店では心を込めて作っている訳ではないというような理由のようです。
もちろんその意見は意見として尊重しますが、私自身は同意は出来ません。
それは、食事が出来ることに対する素朴な感謝の問題だと思います。
うまく言葉に出来ないのですが、世界には飢餓に苦しむ人も多いとかそのようなことではなく、例え自分のお金だろうと思ったより不味かったのであろうと、食べ物はすべてかつて生きていたもの、命があったものだからでしょうか。肉食は残酷でも植物なら痛みを感じないからいいだろうという問題でもなくて、つまるところは命に対する敬意の問題かなと思います。命を食べることによって命を長らえている存在が自分だからです。
私は自由には最も価値があると思っていますが、「お金を払えば何をしてもいい自由」については疑問を抱いています。
そのカフェは、ヴォーリズ建築としても知られているところです。スコーンはサクサクした食感で(少なくとも私は)美味しいと思いますし、ケーキやカレーもお勧めです。
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