宗教

未分類

鬱病になったから特にそう感じるのかもしれませんが、人は「頑張り」や「努力」に対して過剰と言えるほど重きを置いているようです。

例えば、日本で新型コロナの感染や死亡が少ないのは、対策を「頑張って」いるからだというような発言をよく見かけます。そしてその逆の、感染が増加するのは「気が緩んでいる」からだという評価。甚だしい人は、仕事で感染するのは良くてもライブや旅行などの娯楽で感染するのは許せないようで、実際には高齢者施設などの感染者の方が多い時でも夜の街が感染源だとして槍玉に上がっていたことを記憶しています。

それはもう、頑張り教という宗教のようです。

そしてそれを信じない人には感染という罰があるかのようです。

世の中の頑張り教の信者は、他人にもそれを求める傾向があります。

そのために、信者でなくても「頑張っているようにみせる」必要がある。

それが不要不急だと思われるものを職業にしている人に、そのような見かけを求めるということになっています。施設の入り口の検温やマスクなどは「おふだ」です。おふだを貼れば許される。かつてカトリック教会が売っていた免罪符を思い出します。

以前にも書きましたが、私は結果の出ない頑張りには意味がないと考えています。頑張りは手段に過ぎません。それが自己目的化していたら、百害あって一利なしとすら思います。効果のさしてない対策をしても労力を含むコストがかさむだけなのです。

働いている人間の1人として思うのですが、仕事の量は少ない方がいいに決まっています。私には他人の仕事を増やして喜んでいる(ように見える)人の気が知れないです。

頑張った結果鬱病で人生半分以上を棒にふった私と同じような人が、1人でも減って欲しいと心から思います。

無意味なことを自分もせず、人にもさせないことがその第一歩ではないかと思います。

Comments