問い

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私の世代から下は、納める年金保険料の方が受け取る年金額よりも多くなるというデータがあります。正確には1965年生まれ以降の人は、いわゆる払い損ということのようです。

60歳以上は年金の「納め得」で、55歳以下は「納め損」。世代間格差に見る社会保障費の問題とは?|ニッポンの介護学|みんなの介護
公的年金をしっかりと払い続けていれば、資金の心配なく、悠々自適な老後を送ることができる。公的年金制度が開始された頃、多くの人はそう信じて毎月の保険料を納め、老後に備え始めました。事実、現在75歳以上の

そして、昨年からの新型コロナ騒ぎ(騒ぎというと語弊がありますが、あえてそう書きました)は実質何なのかを考えると、当初は未知のウイルスであったので社会の動きを止めるのは全員のためだったと言えるのですが、それ以降は比較的死亡率の高い高齢者に感染させないように社会の動きを止めることの是非を巡る攻防をして来た、というのがとりあえずの顛末ではないかと私は思います。

日本が世界一の高齢社会になったのは平均寿命が伸びているからで、それは社会が豊かで医療水準が高いからだと言われますが、新型コロナの件で分かったのは、それに加えて社会も高齢者を死なせないため最大の努力を払っているからだということでした。

その是非は置いておくとして、長生きすればするほど幸せなのかということを私は考えざるを得ません。

問題はどれくらい生きるかではなく、どのように生きるかではないかと思います。それは、これから自分が高齢者になる過程で自分自身に常に問い続けなければならない問題です。

自分が50歳を超えて感じるのは、もう十分に生きたということです。そして、自分の肉体は日に日に衰える。おそらく、思考力や精神力もそうなのでしょう。もちろんまだ平均寿命には満たないですが、それでもそう思います。

よって、例えば自分が不治の病であったり寝たきりであったり食事が自力で出来なくなったりという状態になった時に、自然に逆らって延命して欲しいとは決して思えないです。私には、生きる権利と同時に死ぬ権利があると思うからです。痛みや苦しみは手段があればなくして欲しいですが、死ぬ時には死ぬので、その時には余計な手出しをせず心穏やかに死なせてもらえたらいいなと思います。

まして、自分が少しでも長く生きるために社会全体に大きな負荷をかけることなどしてもらいたくはないです。その負い目は余りに大き過ぎて、死んだ後にまで心が苦しめられそうです。

以前、戦後の日本社会は価値判断基準を見失って迷走している、というようなことを書きました。

価値とは、そのために死ねる、そのためには死を厭わない対象のことをいうと私は思います。

私にとっては長く生きるということは手段に過ぎないので、決して価値にはなり得ない。

今の日本の経済状況から予測するのですが、今後高齢者には否応なく「何のためにお前は今日も生き延びようとするのか」(つまりこれまで何をして来て、今後何をするのか)という問いが突きつけられると思います。

その問いはその本質から自分に問うもので他人に問うものではないのですが、社会が高齢者を支えきれなくなったらそうせざるを得ないものでもあります。

太宰治の「魚服記」というフォークロア小説に、女の子が貧しい炭焼の父親に「お前なにしに生きでるば」(津軽弁だったのでうろ覚えですが、何のために生きているのかという意味です)という言葉を吐くシーンがありましたが、そんな状況です。父親はわからないとしか答えられず、女の子は畳み掛けるように死んだ方がいいのに、バカ、というような捨て台詞を吐きます。これを読んだのは高校生の時ですが、解釈が難しい作品であるからかいまだに時折このシーンが脳裏をよぎります。

私にあとどれくらいの寿命があるのかはわかりませんが、もし高齢まで生きるのであれば、その答えが出来るような高齢者でありたいと思っています。

太宰治 魚服記

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