主観

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鬱が酷かった間、主観的には死にものぐるいで努力して仕事をしていました。

ですが、今になってわかったのは、その頑張りというのか努力はまったく周囲には伝わっていなかったらしいことです。

以前仮病ではないかと思われていたというようなことを書きましたが、おそらく鬱になったことがない人は無意識のうちに自分を基準にしていて、自分と同じくらい働けないのは「働けない」のではなく、仮病とは思わないまでも鬱を口実に「働かない」のだと思ったのでしょう。

主観的には死ぬほど疲れ切っていてもなお自らに鞭打って働いていたのに、見ている人からはそうは見えなかったようです。何となくですが、鬱のせいで無表情になっていたことや、職場の人と雑談する余裕もなく、自分の状況を伝えることをしなかったこと、そもそも職場の誰にも大変だとは言ったことがなかった(大変かどうかは一度も聞かれたことがなかった)ことなどが理由ではないかと思います。

それは職場の人たちに限らず、同居している結婚相手にも伝わっていなかったようです。何かの拍子に笑いながらこともなげに「君はタフだから、××(疲れる面倒なこと)も出来るだろうから代わりにやって」と言われたことで、それがわかりました。

問題はタフかどうかではなく、頑張ることが出来てしまうかどうかではないかと思います。頑張れば出来てしまうので、頑張ってしまって逆に病気が治らない。

例えば足の怪我に例えると、歩けないほどの怪我をしたのなら周囲も手を貸してくれてじっとしているので治るのですが、痛いけれど歩けてしまう状態に該当するかも知れません。履いた瞬間に痛く感じる靴はそもそも履かないので靴擦れはしなくても、歩いてから痛くなる靴では靴擦れするということにも似ています。

いずれにしても、辛い時には辛いとはっきり言わないと(あるいは言ったとしても)わからない人が結構いるということなのでしょう。そして以前にも書きましたが、私は自分が辛いと思っていたこと自体にもなかなか気付けないでいました。

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