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以前、国家の究極の役割は弱者の救済だけなのではないかというようなことを書きましたが、今日はそれに少し付け加えようと思います。

人は様々な理由で弱者になります。生まれたばかりの乳児は無防備な弱者です。誰でも歳を取れば老人になりますし、病気にかかることもあります。私のように生まれつきの障害がある者もいれば、事故で中途障害者になる人もいます。

そもそも自由競争社会であれば、どんな分野であっても勝者と敗者が必ず存在します。

何かで読みましたが、自分に関わる事柄に対する自己コントロール感が高い人ほど幸福度が高いそうです。それは、逆に言えば、自分ではどうにも出来ないことが多いと思う人ほど不幸を感じやすいということのようです。

自分ではどうにも出来ないことというのは、運で決まってしまっていて選択の余地がないことが多いと思います。例えば昔の身分社会のように、誰の子として生まれたかという運で決まることが多い社会では幸福感を感じにくいですし、弱肉強食で自由競争の敗者は退場しろというのが市場主義ですが、それが行き過ぎると人の幸福感を損なう度合いが大きくなる、ということなのでしょう。

話を戻すと、運というものは誰にでも降りかかるもので、誰でも自分の意思や努力とは無関係に、幸運をつかんだり不運な目に遭ったりします。

幸運な人はさておき、不運な人に生活の保証を与えて救うということは、その当事者だけでなく構成員全員に安心感を与えることです。人の不幸が気の毒だからというだけではなく、明日は我が身の不幸になる可能性があるからです。

つまり、利他主義に立っても利己主義に立っても、集団 の中の弱者の救済には意味がある。

ポイントは、「不運な」人を救う、すなわち弱者となった「理由を問わない」というところにあると思います。例えば救うにあたって努力したかどうかを考慮することは、努力ではいかんともしがたい状況にある人を救えません。自業自得の人(自業自得に見える人)も同様です。

言葉を換えると、人は誰しも様々なリスクを抱えて生きているため、セーフティネットが必要です。

そういう意味で国の役割とは、弱者となった人をその理由を問わず生かすことによって、全員に安心感を与えることを目指すものと言えると思います。

そして、人は究極的にはそのためだけに税を納めるのだと言えそうです。

 

 

 

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