玉葱

未分類

「お母さん食堂」という名のコンビニエンスストアの企画に対する批判であったり、ハイヒールやメイクアップの強制に対する批判であったりと、近ごろは女性の声がとても大きくなったと思います。確かに今の日本社会は男女平等とは言えないと私も思います。

男女が平等に扱われるということは理想の1つであって、その理想を実現すべく努力されている人も多く、私自身にはとてもそんな余裕はないので尊敬しています。

ですが言葉狩りというのか、特定の言葉についてそれを使わないように求めることに果たして意味があるのか、と以前から思っていました。言葉というものは、それを発する人と受け取る人との関係性によって成り立っているものなので、言葉狩りを続けていると、そのうち言葉を発することすなわち自分以外の他者と関係を持つことが出来なくなるという結末になってしまいそうです。そして話し言葉と違って書き言葉は残るものなので、例えば残された言葉から当時の価値観を知ることが出来ますが、言葉狩りをしてその言葉が初めからなかったものとしてしまうこと、そのように過去の価値観を抹殺することは歴史の否定につながると思います。歴史の否定は、決してしてはならないことだと私は思っています。

また仮に男女が平等になったとしてそれで必ず幸せになれるのかというと、そうではないと思います。権利を行使するということは責任を負うということでもあるからです。あるいは、自分の人生が上手くいかないのは社会のせい、制度のせい、他の誰かのせいと思っている間は、おそらくその人は幸せにはなれないような気がしています。

誰しも生まれてくる性別を選ぶことは出来ません。男性の方が有利に扱われることもあればその逆もあります。

自分自身がおそらく社会で最も差別される存在の1つではないかと思われる発達障害者・精神疾患者なので特にそう思うのですが、例えば女性でも日本人でもアジア人でも障害者でも、私の属性とされるものは社会から自分に与えられた「役割」というだけで、私自身の人格とは何も関係はありません。

人類が社会生活を営む限り、差別というのか区別はおそらくなくならないと思います。社会は「役割」で成り立っているものだからです。

そもそも言葉は、あるものと別のものを区別するためにあります。

よって言葉を使う限り、差別はなくならないと思います。

例えば男女という言葉そのものが、LGBTというマイノリティジェンダーの人に対する差別だということになるのが典型例です。

差別をなくそうとすることはもちろん尊いことですが、タマネギの皮を剥くようなものでもあると感じます。

私自身は性別や能力など持って生まれたものは自分の運命なので、その与えられた条件の中でやりくりするしかないというのか何とか生きて行こうと思っています。

Comments